林檎とレールのあいだ

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震度6の記憶

あの地震から3年ですか。

早いですね。

 

その時はこのブログやってなかったので、ちょっと書き留めておきます。

 

僕の住んでいる市は震度6弱でした。

会社にいましたが、まあ揺れましたね。

死ぬかなとも思いました。

建物がものすごく古く華奢だったので崩壊するなと。

幸い、自分のいた建物は無事でしたが、敷地内の他の多くの建物はその後使用禁止となりました。

 

寒い中、外の広場で結構長い時間待機することになり、その間に津波の情報などが断片的に入ってきました。

震源がどこか分かるまでは、東京のことが心配で仕方なかったです。

とにかく小さいころから学校などで東海地震のことを散々言い聞かされていたので、とうとうそれが起きたのだと思っていました。

 

やっと解散して家に帰った時に驚いたのは、カギをかけてあるはずのベランダのドアが全開してたこと。火事場泥棒でも入ったかと思いましたが、そういう感じでもなく、たんに揺れのせいで開いたようでした。

部屋の中はそれなりに散らかり、片付けようにもすぐに日が暮れて暗くなってしまったのでその日はほぼそのままで寝ました。

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しかし、あれほどの地震となると余震もすごいもんですね。ほんと一晩中揺れ続けてました。

 

電気、ガス、水道がとまり、携帯の電池が切れると正真正銘の孤立です。

会社は1週間とちょい休業。電気は約2日、水は約2週間止まりました。

原発の情報は電気が止まっている間入ってこなかったので、最初に聞いたときはショックでした。

 

食料を確保しようにも、お店に行っても棚はこんな感じで何もない。若干残ってたスナック菓子でしばらく過ごしました。

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でも、あの津波の映像を目の当たりにすると、自分の状況なんか何とも思わないですね。

 

さて、震災を経験して、人生に対する考えが変わったとか、物の見方が変わったという方が時々おられますが、正直、僕は何も変わりませんでした。

実害が無かったからなのか、何らかの感覚が鈍いのか。。

唯一変わったのは、湯船に絶えず水を湛えておくようになったことぐらいです。

たまたま溜まっていた湯船の水でかなり助けられましたから。

 

もともと、地震大国に住んでいるので地震に遭うこと自体は特別なことではないし、それなりに大きい地震についても小さい時からいつか来るぞと教育されていましたから、来るものが来たという程度の感覚しかありません。

それでも、予想よりはちょっと大きかったですけど。

 

ただ、原発についてだけは悔しいですね。原発事故さえなければ、復興なんていくらでもできると思うんです、この日本なら。

足を踏み入れることすらできない場所を作ってしまったというのは本当に悔しい。

小泉元首相は反原発だけど代案は出さないと言っていたそうですが、ほとんどの人は実際はそうなってしまうんだと思います。原子力なんて使わないに越したことはないけど、代案なんてそんな簡単なものじゃないわけだし。

 

これから長い時間をかけて解決していかなければならないわけですが、これほど無力感を感じる問題ってそうないですね。

それでも一つだけある希望は、なんとか原発を収束させて、その技術が世界の役に立つものになること、でしょうか。